お手紙とかメールで、どうやって曲を作ってるんですか。
というのがいくつかあったので、
僕にとって、曲を作る行程を、イメージしてみたいと思います。
言葉にするとちょっと違う感じもするけど、まあそれは仕方ないので、恐れずに。
*
これまで生きてきた中で見た/感じた、風景や感情があって
あるいはこれまでに触れてきたたくさんの、誰かが創った物語があって
それらが心の中ある、透明なガラスのコップに溶けている、と仮定しましょう。
青い水溶液です。
そこに、ちょっと強い感情や
あるいは美しいモチーフが落ちると
それが核になって、だんだん、成長していく。
それは鉱石ができる過程によく似ている。
途中で触ったりしないで、ゆっくりと時間をかけて
最後には、もうそこにあったことさえ忘れて
僕はただ坂道を歩いている。山の頂を目指している。
ある夜、
風
が
強く吹いたから、ふと、ガラスのコップをのぞき込む。
ある結晶がそこにはあって
やさしく取り出して、空にかざしてみる。
月の光が鋭すぎて
青い結晶は
身を震わせて、綺羅と光った。
*
曲作りというのは、そういう感じです。
むしろ自分では作ってない気がします。
気づいたらそこにあって、そういうときは
まるで天から降りてきたように、そこにあって
誰かがくれたみたいに、
そういうタイミングは、これまでも何回か
ダイアリイにも書いてるけど…
もし僕に他の手段があれば、
絵を描いたり、映画を撮ったり、オブジェを作ったり
違った道があったかもしれないけど
セロしか弾けなかった。
だから、頭にの中にあるそれを
セロ(とMac)を使って忠実に再現したいのですが
僕が未熟なせいで、100%でないのが本当に残念です。
でも、近づけたい。
*
こういう曲の作り方、マジで?
と思う人もいるかもしれないけど
たびたびダイアリイにも書いてますが
幼い時から酷い近視なので(現在はコンタクト)
物理的に、楽譜が全く読めませんでした。
10cm離れると、本も読めない。本当に。
なので、クラシックの曲を覚えるというのは
僕にとっては曲をただ聴くことで
それはオーケストラのセロパートもそう。
聴けばわかるし、聴かないと全くわからない。
なので、全部暗譜ですし、凄いとか凄くないとか、良いとか悪いとか以前に
そうしないとセロが弾けなかった。
でも、楽譜とかコードとか理論とか、さすがに、27歳のときちょっと勉強しました。
確かにこれは便利!!というのと
あとアレンジとか人に伝えるのは楽になったけど
それによって作曲法が変わるとかは特になかったです。
なんというか…もはやその年齢では変わりようがないというか。
*
心の水溶液は、おそらく、ただ生きているだけだと
薄くなっていくと思われる。
本を読んだり、美術館に行ったり
それぞれのやり方で濃くしてあげないと
薄くなるばかりか、完全に干上がってしまうことさえある。
…そんな大人を、たくさん見てきた。
現実は、それほど強い。
それ以外の世界で生きることを許さない硬度がある。
いま、ここ。
だけで生きろ、と。
いつの時代も酷かった。生きやすい時代なんて人が生まれてから一度もなかった。
現在も。
だからこそ、先人たちの、奇跡みたいな空想の結晶に触れることで
僕らは勇気をもらう。
ここではないどこかへ。
それが、創作というものの意志じゃないかと、僕は思います。
*
曲として完成してデータにしてる
(すぐレコーディングできる)のが10曲くらい。
モチーフが固まっているのが5曲、
断片的なフレーズが10個くらいで
これらが多いのか少ないのかわかりませんが…
あとはまだ目に見えず、青い水溶液の入ったコップがあるだけです。
しかるべきコンセプトのときに
相応しい結晶をサルベージして、適切に配置する。
それが小品集。
*
劇伴とかwebとかCMとか、数が必要なときは
こういう方法論とは別のやり方をするときもありますが
少なくとも左ききのゴーシュに関しては
結晶以外を出したことはなくって、
逆に言うと、数がそこまで量産できないです。
意図的に成熟を早めることもできなくはないけど
どこか不自然な気がして
他の人にとっては本当に些末な部分かもしれないけど
おそらくそこが、本人にとっては、傷として残っていく。
そしてそこから腐って、風化していく。
僕はそう思います。
なので、左ききのゴーシュには
最低限、それを守れるペースが必要。
それは、何かをするには短すぎて
何もしないには長すぎる。
人生って。
でも、それだけが平等。
平等だ。
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